99年11月
「ムエタイ騒動」
“ムエタイ”というのは皆さん御存知の通り、タイ式ボクシングのことです。12月6日から12日には、世界40カ国からボクサーが参加して、タイでムエタイの国際大会・キングス杯トーナメントが行なわれます。この“ムエタイ”という競技名に怒りを表明して、参加をボイコットすると抗議したのがカンボジアです。カンボジア・オリンピック委員会のプルム・ブン・イ氏たちカンボジア側の主張はこうです。
「タイのボクシングは9〜15世紀のクメール(カンボジア)文明から伝播したものである。古代から足を使うフリー・スタイルのボクシングは、クメール文化に属しているものである。アンコール・ワットの壁画にも描かれている通りである。“ムエタイ”という名前は、さもタイのスポーツのように受け取られる。カンボジアは、このような国際大会で“ムエタイ”という名前が使用されることに断固反対する。このスポーツはカンボジアの伝統的なボクシングなのである。」
これに対し駐プノンペン・タイ大使たちタイ側の反応は−
「“ムエ・クメール”なんて聞いたこともない。カンボジアにも独自の伝統的なボクシングがあるだろうが、タイ式ボクシングも我々の伝統の上に成り立っている。ラオスもビルマも同じである。しかし、現実として国際社会では“ムエタイ”という名前で通っている。そして、ローカルな格闘技から世界的なスポーツ競技に発展させたのは、他ならぬタイなのである。国際ムエタイ協会は54カ国が参加しているが、いままで異論が出たことはない。カンボジアから名前の変更を要求されても、すでにムエタイは国際的に市民権を得ている世界的なスポーツである。名前を変える必要は毛頭もない。」
ムエタイの名前をめぐってのタイとカンボジアの摩擦事件で、“キック・ボクシング”事件を思い出しました。ムエタイは、1970年頃に日本でキック・ボクシングという名前で毎週ゴールデン・タイムにテレビ放送されたことがあります。対戦の組み合わせは日本vsタイです。スター・ボクサー沢村忠がタイからやってきた強豪ボクサーを“真空跳び膝蹴り”でKOさせるシーンを強烈に覚えています。プロレスと同じように多分にショー的な要素の濃い試合でした。最終的に勝つのはほとんど日本人ボクサーです。タイ人ボクサーは、本国では本当に強いのですが、日本で行なわれるキック・ボクシング・マッチでは、なぜか負けてしまいます。しかも、本国のムエタイではKOシーンはあまり見られないのですが、日本での試合では見事にノックダウンしてしまうのです。はっきり言って八百長です。タイのボクサーたちは何と言ってもお金の誘惑に勝てなかったし、当時は今のように世界が同時に映像で繋がっているわけではなかったから、恥ずかしい姿を母国の人に見られる心配をしなかったようです。しかし、日本で行なわれているキック・ボクシングのことが徐々にタイ人の間にも知れ渡ることになり、タイから日本に猛烈な抗議が行なわれることとなりました。タイの国技ムエタイを勝手にキック・ボクシングと名づけて八百長ショーをするのはけしからん。金の力でタイを陵辱する日本人は許せない。日本の一方的な経済進出(経済侵略)ぶりにタイでは反日感情が盛り上がろうとしていた時期でもありました。かくして“キック・ボクシング”は禁句となってしまいました。ネーミングよりも何よりも、タイ人の心情を逆なでにする日本での興行内容自体が問題でした。
さて、タイとカンボジアの“ムエタイ”問題に戻ります。この摩擦も単純にネーミングだけの問題ではない気がします。根っこにはカンボジア人の反タイ感情が膨らんできたことがあげられます。カンボジアはバーツ経済圏に組み込まれ、カンボジア紙幣のリエルよりも、タイ紙幣のバーツの方が安定貨幣として流通しています。カンボジア国境を経由して、木材や宝石、クメール遺跡の盗掘品などが、易々とタイに流出しています。エイズや麻薬渦などは、タイから蔓延してきたものです。長年の戦火で荒廃しきったカンボジア、紛争をうまく利用して繁栄してきたタイ、という相関関係にカンボジア人は悔しさを感じています。カンボジア人の心情をタイ人はどのように汲み取るのか、“ムエタイ”問題は根が深いようです。
話は変わりますが、“ムエタイ”の伝説的な英雄を主人公にした映画が、タイ映画史上最高の制作費をかけて作られました。歴史上、幾度となく戦さを繰り返したシャムとビルマ。捕虜となったシャムのボクサーは、ビルマの10人のボクサーと闘って勝ち抜けば釈放されるという条件を与えられます。この闘いに見事勝って、シャムに帰還した実在のボクサーをモデルにした話です。主演はタイで初めてオリンピック(アトランタ)の金メダルを獲得し、国民的英雄となった現役ボクサーが演じています。ビルマに何度か侵略された歴史を持つタイですから、実害を受けたアユタヤなどでは、いまだにビルマを敵国呼ばわりしています。そのタイ人の心情をくすぐるこの英雄伝説は、公開前から大量の観客動員が予想されます。しかし、タイ人が大いに溜飲を下げるこの映画をビルマ人が見ればあまり楽しめないことでしょう。
隣接する国どうしというのは歴史的に様々な葛藤を繰り返してきているので、第三者が“ムエタイ”のネーミングくらいどうでも良いではないか、と簡単に言えない事情があるようです。
そういえば、日本の周囲にも物議をかもす名称問題がたくさんありました。
「竹島」と「独島」、「日本海」と「東海」、「シナ」と「中国」、………。