
「神の軍隊」に想う
その@ 〜軍政 VS 民主化闘争という短絡〜
1月24日にKNA(カレン民族軍)から分派した「神の軍隊」がタイ西部ラチャブリの病院を占拠した事件(アジア日記“神の軍隊のジハードとは?”24/01/00)の余波が続いています。日本では占拠犯10名の射殺とともに事件が終わったように報道され、毎日起こる事件・事故に忙殺されて、ラチャブリの事件は過去のものになってしまいました。つまらない例を出せば、ノック前大阪府知事のセクハラ・スキャンダルよりも太田房江知事の大相撲受賞式に話題が移っているようなものです。しかし、ラチャブリの事件は偶発事件ではなく、以前にも、そしてこれからも起こり得る事件なので、過去のものとして片づける訳にはいきません。
KNAのことを日本とは無関係の少数民族ゲリラだと思っている人がいるといけないので、ここで簡単に説明します。KNU(カレン民族同盟)の軍隊としてKNAが発足したのは第二次大戦直後のことです(名称や組織の変遷はありますが、混乱するのでここでは現行名にしておきます。あくまでも簡単な説明です。端折りすぎているので専門家にお叱りを受けるかもしれません)。
英国植民地時代のビルマは分轄統治されていました。カレン族にはカレン族の、カチン族にはカチン族の、ビルマ族にはビルマ族の統治が行なわれていました。英国の植民地政策の巧みさは、植民地内の拮抗する勢力を分轄することで、いざ反英の動きが生まれたときに、拮抗する勢力を反英運動つぶしのために利用するという巧みなものでした。仏教徒である多数民族ビルマ族よりも、宣教師の布教でアニミズムからキリスト教に多く改宗したカレン族が親英的な民族としてイギリスの植民地政策に重用され、ビルマ族が反乱を起こすとカレン族が鎮圧するといったことが度々ありました。ビルマを日本の占領下に収めようと画策する日本軍は、南機関などの特務機関員をビルマ戦線に大量投入しました。英国と日本の謀略戦です。南機関は、アウンサンなど反英独立運動のビルマ族リーダーを支援することで対英国戦力を育てるべく画策します。かくして、親日ビルマ族と親英カレン族という構図が成立しました。ビルマに進攻した日本軍は、アウンサン将軍らにビルマ独立を宣言させます。日本軍の傀儡政権です。カレン族は英国に通じる存在として弾圧されます。しかし日本の占領に不満を持ち、真の独立を勝ち取りたいアウンサン将軍らは次に反日戦線を結成して行くようになります。そして1945年3月に対日蜂起を開始します。日本の敗戦後、英国はビルマの宗主国復活をめざすのですが、アウンサン将軍達の反抗で、1948年にはビルマ連邦独立を認めざるを得なくなるのです(アウンサン将軍は独立前の1947年に暗殺される。ビルマ連邦というのは勿論、少数民族を念頭においたものである)。さて、このようにビルマ族は独立を勝ち得るのですが、カレン族は英国のスケープゴートにされたまま、ビルマ族の支配下に組み込まれることになってしまいます。英国に反英ビルマ族の鎮圧に利用され、反日民族として日本軍に弾圧され、戦後は宗主国英国の復活に加担させられたカレン族は、ビルマ連邦に組み入れられるのではなく独立を主張します。カレン族の独立を条件にイギリスに協力していた約束もあったようです。こうしてビルマの反政府組織としてカレン民族同盟KNUとその軍隊・カレン民族軍KNAが武装闘争を開始したのです。カチン、シャン、カレニー、モン、ロヒンジャ族なども、ビルマ族の軍門に下るのを良しとせずに独立闘争を始めます。その後、シャン州のビルマ連邦離脱をめぐって、強硬派ネ・ウィンが1962年にクーデターを起こし、軍政による少数民族支配体制を強めていきます。1980年代になってからの、ソウマウンのクーデター、民主化騒動、総選挙でのNLD(国民民主連盟)圧勝、選挙結果を無視したSLORCによる民主化弾圧、というビルマの動きはみなさんも良く御存知だと思います。しかし、軍政
VS 民主化運動という構図でなされる近年のビルマ報道で抜け落ちてしまうのが、上記に説明した少数民族問題なのです。1988年の民主化騒動以降は、軍政の弾圧を怖れて国境に逃げてきた学生活動家やNLDのメンバー(ビルマ族が多い)が、KNUなどの反政府少数民族組織に合流したために、民主化闘争と反政府少数民族の活動を混同している報道もあります。
ちょっと余談ですが、かつてUNTACに自衛隊が参加するのでカンボジア紛争についての番組が随分と日本で取り上げられたことがあります。たいていの番組は普段カンボジアとは直接に関係の無い(本当は深い関係があるのだけれど)人たちに、カンボジア紛争とは何かということを説明することから始まります。ヘンサムリン政権と国境三派(シアヌーク派、ポルポト派、ソンサン派)、そしてそれぞれを支援する国際関係。当時のカンボジアを語るときに、こうした知識がインプットされていなければ、チンプンカンプンでしょう。テレビの僅かな放送時間のなかで、この知識のインプットから、取材した現状、日本のお茶の間に伝えたいこと、将来の予測など、あらゆることを詰め込もうとしても消化不良を起こしてしまいます。テレビは、ここで現実のデフォルメを行ってしまうのです。善・悪を決め込んで、そこに現実を当てはめて行こうとするのです。国連=善、戦争=悪、難民・孤児=善・可哀相、ポルポト=悪、武器・地雷=悪、NGO=善、社会主義=悪、資本主義=善、学校=善、・・・。こんなふうに割り切れないところにカンボジアの悲劇の歴史があったということがテレビの放送枠の中では言い切れないので、デフォルメしてしまうのです。カンボジアは同一民族が大国の代理戦争を演じて、血を流し合いました。ビルマでは、これに民族問題、宗教問題が絡んでくるのでもっと複雑です。それを軍政
VS 民主化運動という構図だけで切り取っていては、デフォルメも甚だしいものです。ここで自分自身の矛盾にも気づいています。ビルマ族とカレン族や他の少数民族の葛藤の歴史をかなりデフォルメして紹介しているからです。
ここでは放送時間にとらわれる必要もなく紙面もいっぱいあるので、しっかりと書くべきなのですが、「神の軍隊」にたどり着くまでに、私のエネルギーが無くなってしまいそうです。読者の方達に、ビルマ史の本を読んでいただいて私のデフォルメのいい加減さが批難されることを期待して、とりあえず、この場を逃げます。
そのA〜カレン族との出会い〜
正直言って私は歴史の授業が苦手です。年号の暗記も「大化の改新、その意味(538)は?」で止まっています。しかし、アジアで実際に体験することから、歴史の本を読まなくてはと強く衝動されることがあります。衝動を受けたカレン族との出会いについて、いくつかの体験を書きます(まだまだ「神の軍隊」にたどり着けそうにないな…)。
KNUの本拠地があったマナプロウに陥落前に滞在したことがあります。当時(1994〜5年)マナプロウは、KNUの本拠地だけでなく、DAB(ビルマ民主連合:カレン族をはじめ、カチン、カレニー、シャン、モン、ワ族など少数民族やビルマ族亡命者など反ビルマ政府勢力の連合組織)、NCGUB(ビルマ連邦民族連合政府:軍政の弾圧から逃れてきたセインウイン氏などが旗揚げした亡命政権)など数々の反ビルマ政府組織の拠点として機能していました。モエイ川、サルウィン川を挟んで対岸はタイ領です。もともと、タイ側もビルマ側もカレン族の領土だったところに国境線をひいただけですから、カレン族達はパスポートもビザも関係なく行き来しています。国境線であるモエイ川は船を利用すれば、山深い森を歩くよりはるかに便利な幹線路です。国境沿いのタイ軍は、戦略的にもビルマ軍よりもカレン軍に味方していて、外国人であれKNUの許可を受けている人間であれば、密越境も大目に見てくれていました。
私が滞在したのは、クリスマスからカレン正月の時期でしたが、カレン族にとってはもっとも儀式の多い季節です。ある日、カレン族のある長老の家に招待されました。最初は、ビルマ軍との交戦状況や負傷兵の問題、NLD(国民民主連盟)やABSDF(全ビルマ学生民主戦線)との関係など、カレン族が置かれている状況が話題だったのですが、私が日本人であることから第二次大戦時代の話に移りました。そして長老はおもむろに、マリア像の置かれている神棚の裏から、日本軍政時代のお金と軍刀を持ち出してきました。無謀なインパール作戦の失敗から敗走する日本兵士が食べ物と交換に残していったものだと言います。日本軍占領時には、カレン族は親英であるということから虐待されたケースが多いのですが、日本が負けて敗走するときに日本兵を助けたカレン族も多くいたようです。半世紀も経っているのに、長老は日本兵たちの名前をしっかりと覚えていました。名前だけではありません。片言の日本語や日本の歌も覚えています。「ここはお国を何百里〜」とこぶしを振って、日本兵が唄っていたのを真似て聞かせてくれます。「キオツケ」、「バカヤロー」。おそらく日本兵達が日常的に使っていた言葉をそらんじて聞かせてくれます。長老にとって、戦争は今も続いているのです。軍歌を聞かされ、日本兵士たちの残置物を見せられたのは、マナプロウで会ったこの長老だけではありませんでした。山を歩き、カレンの人たちに宿泊を乞うことたびに、老人達から聞かせられました。私はどう受け止めて良いのか、わかりません。戦後に生まれ戦争のことは知らないから、ということでは逃げられません。彼らの中にある日本人は、「軍歌」であり「バカヤロー」なのです。私が日本人であるから、彼らは「軍歌」を唄うのです。
タイ・ビルマ国境の町メソットに、帰国せずにそのまま現地に暮らす残留日本兵のHさんとSさんがいます。お二人にお話を伺ったことがあります。お二人とも日本兵としてビルマ戦線に送られ、戦後もビルマ国内で日本兵狩りに怯えながらも、現地の家族に庇われながら生き延びました。タイ側に移動した後も御家族とともに現地に住むことを決意され、日本への帰国を拒否されました。彼らはもはや「軍歌」や「バカヤロー」の代名詞をもらう日本兵ではなく、近隣の人から「好々爺」として敬意を払われています。そこには時間の継続があります。HさんやSさんは「日本人」を継続して現地の人に見せてきました。
しかし、多くの現地の人たちにとって「軍歌」「バカヤロー」の次の日本は「TOYOTA」や「SONY」など大量の消費物資の襲来であって、日本人の姿はなかなか見えなかったようです。日本人が少数民族のことを忘れ、高度経済成長にうつつを抜かしていた裏返しです。かくして私が少数民族の村にお邪魔すると「軍歌」「バカヤロー」「TOYOTA」「SONY」を一朝一夕のように聞かされるのです。そうした断絶を作ってしまったのは、自分たち戦後世代の責任でもあるわけです。己を知ってもらうためには、相手のことを知らなければならない。そして彼らの歴史を知りたいという衝動にかられるわけです。
そのB〜断絶のあとにやってきた日本青年たち〜
N君たち日本の青年たちがカレン民族軍に義勇兵として参加している話は随分前から耳にしていました。私がマナプロウに行ったときも、ABSDFのキャンプに行ったときも、彼らの情報は聞いていました。しかし、積極的に会いたいとは思いませんでした。なぜなら、武器を持って戦闘に参加することが、日本社会への不満の発露であって、決してカレン族のためであるという根拠が感じられなかったからです。彼らにとって、そこに武器をぶっ放せる場所があれば、アフガンであれ、フランスの傭兵部隊であれ、どこの戦場でも良いような感じがしたからです。実際に、そういう日本青年たちは数こそ多くはないものの存在しつづけています。
マナプロウがビルマ軍に陥落し、軍事拠点ワンカーも陥落寸前のときに、N君に偶然出会いました。タイ側でワンカー基地に雨アラレと着弾するビルマ軍の迫撃砲を撮影しているときに、同じ場所でN君もワンカー基地を食い入るように見つめていました。所用でタイ側に出ていたために、ビルマ軍が総攻撃をかけてきたときには戻るに戻れなくなったこと、ワンカーには日本人I君がいることなど、などを聞きました。結局そのときに、難攻不落といわれたワンカーはビルマ軍に攻め落とされ、I君は死亡しました。
しばらくして、N君がバンコクに出てきたときには、必ず連絡してくれるようになりました。彼は積極的に日本のメディア関係者に連絡を取っていました。少しでも多くカレン族のことを報道して欲しかったようです。N君たち日本の青年を受け入れているKNAは、兵士としての戦力よりも、日本人に関心を向けてもらうことの効果の方に期待していた節があります。またN君たちも完全にKNAの一兵卒になったわけではなく、半年間日本でアルバイトをして滞在費を稼ぎ、半年間KNAに合流するという生活を送っていました。そして現地では、KNAとキャンプ生活をともにしたり、タイ側の町でアパートを借りて生活したりしていました。
ある日、N君から、カレンの医療チームが村を巡り医療活動をするが、同行しないかという連絡がありました。N君が現地連絡員をつとめる「マラリア基金」という日本のNGOからの薬や医療支援金を、このカレン族の巡回医療チームの活動に使っているのだといいます。「マラリア基金」から現場に同行するのは、かつてアフガンゲリラに参加し空手を教えていたA氏です。アフガンゲリラに参加していたA氏の話は、噂で聞いたことがありました。右翼系の団体で、アフガンの情勢変化(ソ連軍の撤退)とともに、活動の場をカレン族にスイッチしていたのです。「マラリア基金」の背景が判り、それはそれとしても、タイから国境を越えてビルマ側の村村の実状を見てまわることに興味があります。ビルマ軍の攻勢が続き、マナプロウやワンカーなどカレン族の拠点が陥落した後の現地の状況も知りたく思っていました。また当時、オウム真理教の指名手配犯(林泰男、菊池直子など)がタイ近辺に逃げてきているという噂があり、逃亡生活ができるとすればラオス、カンボジア、ビルマ国境近辺ではないかという読み(この読みは間違いで、外国人は目立つので国境近辺のように周辺国の軍が情報招集活動をしているところではガラス張り生活しかできない。麻薬王クンサーの取材でシャン州に入ったときも、こちらはタイ軍の目をごまかして越境したつもりでも、軍は全てを掌握していました)もありました。かくして、私なりの思惑でカレンの医療チームの村落巡回に同行したのです。
KNUの新拠点となったサカンチットから先は、徒歩で村を廻りました。集落に着けば、村人が病状を訴えながら医療チームの周りに集まります。部落長の家が臨時診療所になります。医療リーダーのセイン・ハンはビルマ族ですが、軍政の民主化勢力弾圧を逃れてきたABSDFのメンバーです。患者はマラリア、破傷風、栄養失調、などさまざまです。ひととおり診療が終われば、村人に後ろ髪を引かれながらも、次の村に移動します。基本的にはカレン軍の支配している地域ですが、ビルマ軍に発見され射撃されやすい山の斜面では駆け足で上り下りすることを強いられます。最初こそ張り切って前後左右にまわり撮影していたのですが、日ごろ不摂生な生活をしている私ですから、すぐにアゴがあがり、置いてきぼりされることも何度かありました。
こんなことがありました。セイン・ハンが悔し涙を流しています。彼の目の前には異常に膨らんだお腹以外は骨と皮だけの赤ん坊が辛うじてかすかな息をしています。母親もミイラのようにやせ細った手足をけだるそうになげうって、たかる蝿を追い払おうともしません。マラリアにかかり、食べものも十分でない母親が栄養失調にかかり、お乳が出なくなったために、生まれたばかりの赤ん坊ももはや死を待つだけの状態になっているのです。隣人たちの中には、この赤ちゃんに乳を分け与えることのできる女性もいるのですが、セイン・ハンがいくら説得しても、赤ちゃんの命を救うための分乳を承知してくれないというのです。この母子は違う少数民族であることや迷信(病気の子に乳を吸わせると自分も病気になる)が、隣人たちの分乳を拒ませているのです。セイン・ハンは、ビルマ族の自分がカレン族の活動に合流しているのは民族を超えた民主主義のためなのに、このような現実に直面したときに何も術がない自分の無力さが悔しいと涙をためているのです。母親に応急のブドウ糖点滴と赤ちゃんのために数缶の練乳を渡したものの、数日後に赤ちゃんが息を引き取ることは解っています。これが現実です。
農家の居間に宿を借り、ロウソクの灯かりで夜を過ごしながら、N君やA氏からいろいろな話を聞きました。彼は口癖のように、ビルマ軍事政権を支援する日本政府はカレン軍の敵であり標的である、と言い続けていました。N君もマラリアを患っています。N君は義勇兵としてカレン族の闘いに参加したのだけれども、山村に生きる人たちの現実をみるにつけ、彼の興味は戦闘よりもこの巡回医療に移行してきたようです。銃を持つことに抵抗感のある私としては、きっかけや背景は別にして、N君の変遷に共通項を見出したような気がしました。
その後N君は、バンコクの病院で悪性マラリアで亡くなりました。私がしばらくバンコクを離れていたときだったので、彼の死亡を知ったのは随分と後のことです。私の手元には、巡回医療のときの映像が公表されるあてもなく残ったままです。
昨年暮れに、N君が拠点にしていたメソットに行きました。「マラリア基金」は存続していました。N君と同じように義勇兵としてKNAに参加した元自衛隊員のI君が後継者になっていました。I君には不在で会えませんでしたが、義勇兵ではないけれども何人かの日本の若者がカレン族に興味を持って、現地に長期滞在していました。彼らは「軍歌」「バカヤロー」「TOYOTA」「SONY」の他に、カレンの人たちにどのような「日本」像を残して行くのでしょうか。
そのC〜「神の軍隊」の謎〜
KNA(カレン民族軍)から分派独立した「神の軍隊」が「神」という名前を使ったのは、千年紀(ミレニアム)に救世主が現れるというキリスト教の謂れと、神憑りの双子の少年司令官をからめて人心を集めようとしたと、タイの新聞には解説されています。多くのカレン族は中世以来、西欧列強の宣教師たちにアミニズムからキリスト教に改宗を促された経緯があります。中世は政教一致の時代でもありました。宣教師たちは西欧列強の先兵として、アジア、アフリカ諸国にキリスト教の伝播以上に、交易や植民地政策に大きな役割を果たしました。アジアの少数民族たちが生活する地域で、この中世の宣教師たちの伝統が残っているというと驚かれるかもしれません。こんな話を友人から聞きました。チェンマイにすむアメリカ人牧師が「神の軍隊」への武器供給の橋渡しをしていたというのです。また、インド東北部のナガランド(多数の少数民族が住む。多くのナガ住民は植民地時代にキリスト教に改宗している)でも、独立運動を支援しているのが西欧のキリスト教関係者であるという話を聞きます。東ティモールがインドネシアに侵略されたとき、東ティモールが共産主義化することを快く思わなかった欧米諸国は、インドネシアの行動を批難することに消極的でした。しかし、インドネシアの支配時代も東ティモール住民(キリスト教)の支援を表裏で続けていたのが西欧のキリスト教関係者であった点が見逃されがちです。スハルト政権崩壊後の東ティモール独立をめぐる問題では民族自決権が喧伝されたのですが、イスラム教対キリスト教という視点は意外に触れられていません。こうしたことを一概に宣教師たちの伝統の残映であると言うのは少し乱暴ですが、側面的にはあたっている部分もあると思います。
話がずれてしまいました。「神の軍隊」に戻ります。KNAに義勇兵として参加していたのは、N君たち日本人青年だけではありません。欧米からも猛者たちが義勇兵としてKNAに参加しています。N君たちの背景に日本の右翼関係者たちの姿がチラホラと見え隠れするように、西欧人たちの背景にもミッション系団体や某国諜報機関の姿がチラホラと見え隠れします。カレン族が彼らに傭兵料を払っているわけではなく、何がしかのスポンサーが彼らに資金を与えているのです。強硬路線が受け入れられずにKNAから分派独立した「神の軍隊」も資金、兵器などを自分たちだけで賄う力はなかったはずです。誰かがスポンサーになっていたのです。それは誰かと推論してゆけば「落合信彦」的に面白いのですが、ここでは止めておきます。いずれにしてもアメリカや中国、英国そして日本など、大国の影がチラホラと見えてきます。そして、なぜ大国がカレン族に関与するのかと考えたときに、大国は決して民主主義や少数民族自決のために関与しているわけではない、大国のエゴのために関与しているのだ、と思い至ります。国際関係なのか、資源競争なのか、麻薬がらみなのか、武器売買なのか、大国が利するようなエゴが関与しているのだと思います。
KNUがビルマ軍政に対し柔軟路線をとり始めた後に分離した強硬派は「神の軍隊」だけではありません。KSA(カレン連帯軍)もKNAと完全には分離していないながらも強硬路線を取っています。KSAの訓練キャンプを取材したことがあります。KSAはカレン族だけでなく、カレニー、モン、カチンなどの武装解放ゲリラとの共同戦線でビルマ軍包囲網を築くという作戦を展開していて、私が訪問したときは各武装グループから派遣された訓練生たちの修了式を行っていました。修了式に列席していた軍事教官の中に外国人がいます。外国人にカメラをむけると、拒否されました。理由は、英国人が海外で個人的に軍事活動をしているのが判ると市民権を剥奪されるからだといいます。ちょっと疑問符が点ります。ときには拒否されるものを敢えて撮影しなければならない場合もありますが、基本的には拒否されれば撮影しません。しかし、元英国グリーンベレーだという彼がどういう経緯でKSAのキャンプにいるのか、そして撮影されると困るのは市民権の問題ではなく別の問題であると考えるのは私の穿ち過ぎでしょうか。
そのD〜第2第3の「神の軍隊」〜
日記にも書いたように、ラチャブリの病院占拠事件の起こる少し前に私は「神の軍隊」の双子少年司令官に会いたいと思っていました。カレン軍もビルマ軍も少年兵が多く目立ちます。少年兵の精神世界とはどんなものなのだろうか、とても関心があります。子どもは純真です。そして子どもは残酷です。子どもの遊びで、カエルを殺すことも、セミの羽を抜くことも、純真さのなせる技です。そして残酷です。自分以外の世界が認知できるようになって、他人の痛みも悲しみも苦しみも分かり、残酷さを押さえて行く事ができます。それは純真さを失うことと比例しています。純真に戦う少年兵の精神世界とはどんなものなのか、司令官に祭り上げられた双子の少年に会ってみたい。
しかし事件後、「神の軍隊」は壊滅状態に追い込まれてしまいました。残党は生き延びています。少年司令官は行方不明です。そして、カレン族の置かれた状況が変わらない限り、彼らは戦う意志を捨てないでしょう。いつか、どこかでスポンサーを見つければ、再起するでしょう。ビルマ軍との闘いが追いつめられてゆけばゆくほど、彼らは対外的に注目を集めやすい標的に攻撃を絞って行きます。昨年10月のビルマ大使館占拠事件、今年1月のラチャブリ病院占拠事件というふうに、・・・。
亡くなったN君の言葉を思い出します。「ビルマ軍事政権を支援する日本政府はカレン軍の敵であり標的である」
# 国境情勢はまだ流動的です。何かあったら、続編を書きます。