
スパイシーたいらんど:2002年2月
「ソサエティー・ドッグ」
1月16日のことです。バンコクでこんな事件がありました。
路上を歩く二頭の象に数匹の犬が噛みついたのです。象は狂犬病に罹った可能性があるので、早速、動物病院に運ばれて投薬処置を受けました。
治療にあたった獣医は、
「手当てが早かったので命は助かったが、狂犬に噛まれて放っておくと7日以内で死ぬ可能性がある」
とインタビューに答えています。
同じ日に、犬に噛まれた子牛が病院に運び込まれています。狂牛病ならぬ狂犬病の牛を食べるとどうなるのだろうか、なんてつまらないことを言っている場合ではありません。
こういう事件が相次いで起こっている所為か、バンコク都では飼い犬の登録義務と、学校、ホテル、レストランなど公共の場所への犬の連れ込み禁止条例が提議されました。すでに1992年に発行した狂犬病予防法では、犬に狂犬病の予防接種を年一回受けさせることが飼い主に義務付けられていて、注射済みの鑑札を首輪に付けることになっています。しかし、鑑札を付けた犬など、ほとんど見たことはありません。庭のあるお屋敷で飼っている犬はともかくとして、路上で散見する犬はソサエティー・ドッグというか、コミュニティー・ドッグというか、誰が飼い主であるかというのは特定できません。野良犬ではなく、地域住民がみんなで飼っているような存在です。住民はそこに犬がいることを認識し、誰かが世話を焼いているのだが、個人の所有物ではないのです。私が飼い主であると誰かが名乗り出て、お役所に登録に行き予防接種を受けることなどはないでしょう。
タイには約600万頭の犬が居り、その12%にあたる約70万頭が野良犬です。そして、バンコクには約11万頭の野良犬がいます。日本では1957年以降狂犬病による死者がでていませんが、タイでは例年50人前後の死亡者がでています。お役所も稀に野犬狩りを行いますが、施設に収容された犬の約3割が狂犬病だということですから、かなりの確立です。バンコク週報によると、都内の大手私立病院に犬に噛まれて治療にくる日本人が毎月2〜3人はいるということです。
1993年の民主化騒動で有名な元バンコク都知事のチャムロン氏は現在カンチャナブリで思索三昧の生活を送っています。彼は、野犬狩りで施設に集められた犬を不憫に思い、薬殺寸前の数百頭の野良犬をカンチャナブリの自分の敷地に移送させました。巨大な犬檻の中には、涎をたらし目つきの悪い、いかにも狂っているとしか思えない犬がウジャウジャとひしめきあって唸りをあげていますが、チャムロン氏は飄々と檻の中に入って餌を与えていました。氏を撮影するために蛮勇をふるって私もケージの中に入ってみましたが、ものの5分もしないうちに下半身は犬の涎でベトベトです。この際、舐めるのはかまわんから、どうか噛むのだけは勘弁してくれ、と心の中で何百編も唱え続けました。こうなると撮影どころではありません。まったくの金縛り状態です。しかし、チャムロン氏のツルの一声で狂った犬たちは私から離れていきました。さすが、只者ではない、とチャムロン氏に敬服した次第です。彼は狂った軍人を許容することができませんでしたが、狂った犬を包容しています。
犬と言えば、プミポン国王の忠犬トンデェーンが話題を集めています。
まず、週刊サイアムラット新年号に「トンデェーン物語」が掲載されて注目されました。
そして、トンデェーンとその小犬たちをプリントしたポロシャツを国王自身がお召しになったというニュースがありました。
ですから今、トンデェーン・シャツがバカ売れしています。
シャツの売上げは公益事業に活用されることになっています。
こういう風に順にニュースを追っていくと公益事業の資金作りというのが先にあって週刊誌に「トンデェーン物語」が書かれたと勘ぐれるのですが、やむごとなき御方のことを勘ぐってはいけません。
物語によれば、近ごろ国王がプライベートで人に会われるときに必ず膝元にいるトンデェーンは、生まれたばかりの1998年11月7日に痩せた母親とともに路上で拾われ王宮で暮らすことになった犬です。種類は伝統的なタイ犬です。母犬は亡くなりましたが、ドイツから来た西洋種のトンテェーと結ばれ、現在は9匹の子犬の母です。つまりトンデェーンは、タイにいる野良犬のなかのシンデレラなのです。王宮に暮らすチャンスがなければ、いまごろ象に噛みついていたかもしれません。
タイに「天花と寺犬」という謂れがあります。
つまり「月とスッポン」という意味です。それぐらいに犬は蔑まれているのですが、仏教国ですから虐待はされません。野良犬といえども、社会の底辺にいることを認知され、惰眠を貪り糞尿を垂れ流すことを許されています。狂犬であっても人間に噛みつかなければ、そこら辺に放置されています。写真家・藤原新也は野良犬の写真でインドを表現しましたが、タイの野良犬の惰眠はタイ社会の包容力を顕していると思います。
しかし、象への噛みつき事件などが起こっているのを見るとタイ社会もかなりのストレスが溜まってきているようです。
(MK)